ラダック・ザンスカール 旅の記録 20

 
 2019年8月13日
 ラダック・レー滞在最終日。
 ホテルのレストランで朝食を済ませてから、レーの街を歩く。
 最後に撮って周ったのはゴミ。プクタルでも気になっていた。
 プクタル寺院で、おやつの時間になると子どもたちがゲストハウスの売店にお菓子をもらいに来ていた。プラスチックで包装されたお菓子。とてもカラフルな。彼らはそれを食べると外の道端に捨てる。プラゴミが紙のゴミと違って土に分解されないことを知らないのだろうか、と考えていた。大人が咎めている場面は見なかった。ラダック・レーに戻ってきて道を歩いていると川や道の脇に落ちているプラゴミが目に止まった。町にゴミ箱はない。ゴミがどのように収集されているのかもわからなかった。





 ダウンタウンの骨董品屋を目指して高台にあるホテルから坂を下っていると、路上で石を販売している人を見かけた。しばし物色。ラダック産の水晶、ザンスカール産の水晶が並べられている。お店のお兄さんと話し込み仲良くなる。仕入れで来たのではないので石を買うお金はないと説明する。でも、いくつか欲しい。結局3つを購入。ザンスカール産の水晶を持って帰ることにした。その後も店主と話していると、通りすがりのインド人男性に携帯で写真を撮られる。何やってるの?撮らないでよ、と英語で怒ると、びっくりした顔で携帯を下げて立ち去る。君の言ったことは正しかったよ、彼の行動はおかしい、と店主が言ってくれる。彼らはインドから来た観光客なのだそうだ。見なりでわかるらしい。その後も、歩いていると何度か写真を撮られた。韓国語や中国語で話しかけられたけれど、日本語で話しかけられることはなかった。
 歩いていると明らかに日本人だなと思う男性を見かけた。なんだろう、向こうも私のことを日本人だと気づいているはずだったが、話しかけられなかった。私も話しかけようとは思わなかった。日本人というのはこういうところがあるかもしれないと思う。受け身体質。
 お世話になったツアー会社の方にお礼を言いに事務所に立ち寄る。ザンスカールの旅は素晴らしく、ガイドのギャツォには大変お世話になったことを話す。ただ、運転手についても話す。行きの事故については報告させてもらった。それから、友人から知らせてもらったインドとパキスタンの衝突についても詳しく訊ねた。行きのカルギルに着いた日はまさに衝突が起こるかどうかの緊迫した日だったようで、不安にさせてはいけないとあえて連絡をしませんでした、とツアー会社の方は話した。知らないとはすごいことだと思った。知らされていたら、色々と不安に思ったかもしれない。不安に思ってもWIFIがないので知りようがない。私のこの旅はこのようになっていたのだなと思った。



 お目当ての骨董品屋に着く。店主は確かアメリカ人。しかしラダックに移り住んでとても長い。たくさん説明を聞く。タンカが気になり、いくつか見せてもらう。5つを選び購入する。
 あとはインド煙草を探しに売店のようなところをまわる。骨董品屋の店主があそこにならあるはずだと売店の場所を教えてくれる。ビディという煙草。紙ではなく乾燥させた葉で巻かれて紐で結ばれているとても小さな煙草。ラダックではビルディと言うらしい。仏教徒が多いため煙草を吸う人はほとんどいないけれど、あるにはある、とのこと。教えてもらった売店に行って店主に尋ねると出してくれた。お土産に購入する。

 ホテルに戻るために坂道を登っていると、ホテルのレストランの支配人にばったり出会った。白いワイシャツに黒のズボンという制服姿ではなく、Tシャツにパンツ姿サングラス、半袖で見える彼の腕にはびっしりタトゥーが彫られていた。わ、と思ったけれど、ホテルまでの道のりは一本で、避けられない。彼が話しかけるのになんとなく合わせて歩いた。彼はマナリ出身で、ネパール人とインド人のハーフだった。夏の間はラダックのホテルのレストランを任されていて、マナリでは自分の家を持っているらしい。マナリがどこなのか私はこの時知らなかった。ネパールの石の産地は、、、と思い出そうとするけれど、詳しい地名まで思い出せない。仕事を尋ねられて、石屋だと話すと、ネパールに来た時は案内するよ、一緒にトレッキングをしようと彼は言い肩を抱く。私もサングラスをしていたので目が死んでいることは彼にはわからない。トレッキングはしない、と話す。それなら仕事で来たときは案内すると言われる。いつかヒマラヤンクォーツを仕入れにくるだろうかと考える。ホテルに着いたら連絡先を交換しようと言われる。

 タイミングが図ったように合う時、人間は一体何が起きているのだろうと驚く。そこから現実世界が自分に何を言おうとしているのか正しく読み取ろうとするのだけれど、それがちゃんとできているのかどうかを私は恐れていたのだと思う。本当はいつも目の前の現実世界は何かを語ろうとしている。でも、その言語を読む能力が低いため、正しく読めない。
 ホテルの中庭のベンチで日本人の観光客と知り合い、旅の話をお互いにシェアした後、私は持ってきていたノートに自分の旅の記録を書き込んでいた。ノートの上に携帯が置かれた。先ほど一緒にホテルまで歩いてきた彼が自分の携帯を置いたのだ。画面を覗くと、SNSのプロフィール検索の画面が表示されていた。ああ、と思い、自分の名前を打ち込み、彼に手渡す。ありがとう、と言って彼はレストランの準備でいなくなる。すぐに携帯に友達申請の知らせが届く。承認すると同時に地面が揺れた。文字通り、揺れたのだ。ラダックでは稀な地震。清掃で庭を通り抜けようとしていたホテルの従業員が、こんなことは滅多にないんだと話した。
 地震がタイミングよく重なったことは深く考えないように努めた。誕生日が一日違いだったこともあまり気に留めないようにした。そんな偶然より、彼がその日私を探しに街を歩きまわり、あの坂の途中で見つけ、偶然を装って話しかけたということの方が驚いた。前の日に、明日の予定はと聞かれていたことを思い出した。そして、最初にラダックに着いた日にもロビーで私を待つのに苦労したことを聞かされた。レストランの前で食事に案内されたけれど、気分が悪くなって一度部屋に戻ると言った。再び部屋から出た時に彼は同じ姿勢で階段の下で待っていた。本当はあそこで待つことは許されていない、1時間待つのは少しハードだった、と彼は打ち明けた。それを聞いたのはラダックを発った後だった。
 待たれるというのは悪くない。引き留められるというのも悪くない。旅の最後におまけのような少し浮いた話もあってもいいなとラダック最終日、夕食を食べながら考えていた。いつもより客が多く、彼は忙しそうにしている。
 君にとってこの旅が特別なものだったのはなんとなくわかった、と彼は言った。でも、君は少し寂しそうに見えた、とも言った。外国人は言葉がストレートで、心に思っていることを隠さずに話す、と思った。そのように思いがちであるということも考えた。英語で会話をしていると言語自体がそのような性質を持っているのではないかという気になった。
 彼には夢があった。人と繋がることはその夢を現実にするための手段でもあったけれど、お金目当てで日本人とくっつきたいと思っている人ではなかった気がする。いや、そう思いたくなかったのかもしれない。私自身には彼に対する気持ちはないはずなのに、相手が本気だったかどうかを見定めようとするのはどういうことなのか。少しだけ寂しかったのは確かだ。でも、誰でも自分を思ってくれる相手が本心を言っていると信じたいものではないだろうか。
 インドとネパールの両方の国籍を持つことができたとしても、私はあなたの夢を一緒に叶えたいとは思わない、とはっきり言うことができても、中々関係性がさっぱりとしたものにならなかった。彼がタフであったお陰で、私は言いたいことを言う練習をさせてもらった。
 連絡先を交換した時に起こった地震をどう読むか、度々考えた。彼との会話で私自身の土台が揺れるということだったのか。大いに揺すぶられたが、私はいまだに八ヶ岳にいる。二階のベランダから子どもたちが隠れんぼをしているのが見え、遠くに富士山が見えるこの条件を選んでいる。人生観について、愛情について、パートナーとの関係について、彼とはたくさん話し合った。国籍の違う両親をもつ彼の意見は興味深かったし、いい人なのだろうと思った。けれど、生きていくには条件がある。無条件の愛情は子どもからもらい、親が子どもに与えるのは無条件の愛なんかではないと感じる。逆だ、無条件なのは子どもたちの方だ。無条件と条件との間で揺らぐ大人との会話の中で子どもらに必要なのは条件や制限ではなくモラルなのではないかと考えたりしている。現実世界は条件で成り立っている。過去の営みがなければこの今のような現実には至っていない。ある時のある条件が重なってできた結果。
 形あるものは過去だ。過去からの結果である現在は私たちに問う。この先をどう作るのかと。




 思考は全ての存在と一つであろうとし、感情は生まれ持った民族や周囲の存在と一つであろうとする。そして意志は、無意識の奥深くに埋まるカルマに導かれて人生を歩もうとする。私たちはこの三つを肉体の中で混ぜ合わせて存在するけれど、霊的に生きるのなら、これら三つは別々に歩みを進める、と今読んでいる本の中で書かれていた。(ルドルフ・シュタイナー「秘教講義1」)
 旅行者を眺めていて、きっとこの人は本人にも気づいていない何かに引っ張られて、つまり意識されていないカルマによって、旅をすると決めて来たのだと、なんとなく思った。対立する二つの国の境目のない地域では、人は自らが属する民族に感情を寄せていた。感情だけでは解決できないことがあり、意志だけでは理解できないことがある。でも、思考がある。私たちは考えることができる。新たな概念を生み出すこともでき、それを概念だけに留めず、内実のものにできる。感情からも、カルマからも自由になることが、人間の目的だろうか。私はそれが知りたい。



 2019年8月14日。デリーから成田へ向かう飛行機の中で、日本ではまだ上映されていないクイーンの映画「ボヘミアンラプソディ」を見る。フレディ役のラミ・マレックの背中が素敵で写真に収める。誰かに似ていると思うけれど、誰なのか特定できない。音楽からは離れられないといえば元旦那だけれど、背中は別物で、ゲイといえば古い付き合いの友人だけれど、彼の背中とも違う。ラダックで知り合ったマナリの男性も曲を作ると言っていたけれど、彼の背中は記憶にない。記憶というのはこの人生だけに由来するものだけではないのかもしれない、とぼんやり考える。
 成田に着くと、もう一度8月14日が始まっていて、デリーよりも東京の方が暑く感じた。新宿から山梨に向かうバスに乗り換えて、バスの中から撮った写真は雨だったけれど、雨が降っていたことは記憶にない。別の意識、別の感覚に移っていくのは覚えている。ああ、ここが私の住んでいる場所なのだと思った。でも、その場所から外に出ていた感覚がまだ残る。中と外があるのだとわかる。人間が外界と内界を区別できるのも、これと似たようなことなのかもしれないと思う。人間が中と外を区別できるのは、体の外に出たことがあるからなのだろう。この旅の後、翌年にはコロナが発生し、私は眠りと夢の状態に興味が移って行った。旅の記録も写真もしばらく(実際には2年)寝かせたままだった。すぐには噛み砕けないことがたくさんあり、書きたいとも思えなかった。今ここに書いているタイミングでよかったのではないかと思っている。
 現在は気軽に旅ができなくなり、行って来いと言われているようなラダック訪問者との出会いに背中を押されて、この旅が現実になったけれど、まだ見ていなかったザンスカールの風景が、すでに住んでいる八ヶ岳の麓から見える風景と似ているということも、人生には起こりうるわけで、訪れる先々で目の前に起こる現実は言葉を持つとつくづく感じる。私はそれをどのくらい読めているだろうと思う。

「世界の現象を読むことができない者は、宇宙のアルファベットの前で立ち尽くすだけ」ルドルフ・シュタイナー





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