ラダック・ザンスカール 旅の記録 12
2019年8月8日
崖を降りて川を渡る。
向こう側の村に行くには川を渡らなければならない。
ガイドのギャツォは二つの橋があると言う。昔ながらの橋、ちょっと危ない。新しく作られた橋、丈夫。どっちがいい?と聞かれる。私は見てから決めると話していた。
写真はそのちょっと危ない橋。笑
大分危ない。ニヤニヤが止まらない私。僕が先に渡って見せるよ、とギャツォが言い、笑顔で橋を渡る。橋の真ん中あたりで、ギャツォが振り返る。もう私は渡る気満々。カメラを背中の方へ、手すりを握りながら橋に足をかける。高所恐怖症だったはずなのに、怖くない。あっという間にギャツォの立つところまで着き、写真を撮ったり。揺れるのはなんてことない。
崖を降りて川を渡る。
向こう側の村に行くには川を渡らなければならない。
ガイドのギャツォは二つの橋があると言う。昔ながらの橋、ちょっと危ない。新しく作られた橋、丈夫。どっちがいい?と聞かれる。私は見てから決めると話していた。
写真はそのちょっと危ない橋。笑
大分危ない。ニヤニヤが止まらない私。僕が先に渡って見せるよ、とギャツォが言い、笑顔で橋を渡る。橋の真ん中あたりで、ギャツォが振り返る。もう私は渡る気満々。カメラを背中の方へ、手すりを握りながら橋に足をかける。高所恐怖症だったはずなのに、怖くない。あっという間にギャツォの立つところまで着き、写真を撮ったり。揺れるのはなんてことない。
多分、ガイドのお陰。彼の体の使い方を眺めていると、何も問題ないと思えてしまう。安心感がある。それだけ、彼が何度も歩いてきている場所だからなのだと思う。彼の足取りは軽くて穏やか。リズムが心地よい。眼差しやテンポが優しいのだ。彼の人柄なのだと思う。
川の向こう岸から宿泊しているゲストハウスが見える。その先にはプクタルゴンパ。
砂利の崖を登ると、小川が現れる。山の上の方から流れてきて、下の川に繋がるのだろう。水がとても綺麗。生えている草も、石も、全て綺麗。日本の山梨で見る川と風景が似ていると思う。けれど何かが違うと思う。人の気配がないからなのかもしれないと思う。人間が関与していない、農薬とか人工的なものが流れていない小川。
川を越えると民家が見えてくる。その先は黄色い花の咲く農地。遠くにプクタルゴンパが見える。村の女性がガイドのギャツォに遠くから話しかける。とても声が高い。ギャツォが話すと相槌を打つ。「ai」という音の相槌。沖縄のおばあみたいだと思う。どこか懐かしい。
黄色い花の農地の先は小さな森。
おばあが背負っていた農具が道端に転がっている。ギャツォが背負って見せる。
おばあが背負っていた農具が道端に転がっている。ギャツォが背負って見せる。
森を抜けると小麦畑。農地の奥、山側には民家が並ぶ。
ギャツォが「好きなだけいていい。気が済むまで。」と言う。私は駆け出して、カメラを構える。遠くでギャツォが土手に腰掛けているのが見える。
ギャツォが「好きなだけいていい。気が済むまで。」と言う。私は駆け出して、カメラを構える。遠くでギャツォが土手に腰掛けているのが見える。
写真を何枚も撮った。撮っては実際の景色を眺め、また撮った。そのうちに見える景色よりも匂いや感触に興味は移って、何度も何度も触っては匂いを嗅いだ。
黄色い花の匂いは覚えがあった。葉っぱの感触もどこか覚えがあった。わっと駆け出したくなる感覚。幼い頃の家の近くの原っぱに、紫色の花を咲かせる草があって、その花はエンドウ豆のような種子をつける。その花の匂いと似ているのだと思った。
帰国して1年経って、花の写真から検索をかけた。この植物は豆科で、ウマゴヤシ、アルファルファ、メディック、と言う名前の植物だと分かった。ギャツォも確か馬の餌だと言っていた。
気が済んだのでギャツォのところに行くと、ムシャムシャ何かを食べている。畑の植物に手を伸ばし、私に差し出す。ギャツォの掌に小さな豆。おいしいよ、と言われ、食べてみる。グリーンピースなのだとわかる。生のグリーンピースは食べたことがなかったけれど、とてもおいしい。茹でたとうもろこしの味に似ている。食べ終わると、ギャツォがまた手にとって渡してくれる。二人でムシャムシャしながら帰る。また小さい頃のことを思い出す。山や林や道の脇に生えている木のみや草や花の蜜のこと。どれが食べられるか食べられないか、父や母や友達に教わった。毎年木に登って食べていたさくらんぼ。ビワ。父の畑の裏山では木苺やあけびもあった。段々見なくなって、桜の木も登らなくなって、ビワも掴むことがなくなった。年齢のせいではなく環境のせいだったのかもしれない。山梨に移り住んで、桑の実や山椒をとって食べたけれど、美味しそうと思えたから手を伸ばしたのだと思う。
黄色い花の匂いは覚えがあった。葉っぱの感触もどこか覚えがあった。わっと駆け出したくなる感覚。幼い頃の家の近くの原っぱに、紫色の花を咲かせる草があって、その花はエンドウ豆のような種子をつける。その花の匂いと似ているのだと思った。
帰国して1年経って、花の写真から検索をかけた。この植物は豆科で、ウマゴヤシ、アルファルファ、メディック、と言う名前の植物だと分かった。ギャツォも確か馬の餌だと言っていた。
気が済んだのでギャツォのところに行くと、ムシャムシャ何かを食べている。畑の植物に手を伸ばし、私に差し出す。ギャツォの掌に小さな豆。おいしいよ、と言われ、食べてみる。グリーンピースなのだとわかる。生のグリーンピースは食べたことがなかったけれど、とてもおいしい。茹でたとうもろこしの味に似ている。食べ終わると、ギャツォがまた手にとって渡してくれる。二人でムシャムシャしながら帰る。また小さい頃のことを思い出す。山や林や道の脇に生えている木のみや草や花の蜜のこと。どれが食べられるか食べられないか、父や母や友達に教わった。毎年木に登って食べていたさくらんぼ。ビワ。父の畑の裏山では木苺やあけびもあった。段々見なくなって、桜の木も登らなくなって、ビワも掴むことがなくなった。年齢のせいではなく環境のせいだったのかもしれない。山梨に移り住んで、桑の実や山椒をとって食べたけれど、美味しそうと思えたから手を伸ばしたのだと思う。
ゲストハウスに戻ると、子供たちが荷車で遊んでいる。
近年ダムの放流で川が増水し、川沿いの建物が流されたのだと後から知った。滞在している間、私服をきている数人の男性が荷台に石を積んで運んでいたが、まだ工事をしていたのだろう。休憩時間だったのか、子供たちが荷台を独占し、遊んでいた。
同じ時間、女性の僧侶のグループが西洋人と一緒に訪れていた。彼らはツアーで各地を回っているのだと、ギャツォは言った。女性の僧侶に呼ばれて、ギャツォがグループの中に行く。小麦でできたパンのような食べ物をもらって食べている。ギャツォが私の方を見て、僧侶たちに何か話をしている。私にも食べ物をくれると僧侶は言う。駆け寄って頂く。赤をまとった女性。
近年ダムの放流で川が増水し、川沿いの建物が流されたのだと後から知った。滞在している間、私服をきている数人の男性が荷台に石を積んで運んでいたが、まだ工事をしていたのだろう。休憩時間だったのか、子供たちが荷台を独占し、遊んでいた。
同じ時間、女性の僧侶のグループが西洋人と一緒に訪れていた。彼らはツアーで各地を回っているのだと、ギャツォは言った。女性の僧侶に呼ばれて、ギャツォがグループの中に行く。小麦でできたパンのような食べ物をもらって食べている。ギャツォが私の方を見て、僧侶たちに何か話をしている。私にも食べ物をくれると僧侶は言う。駆け寄って頂く。赤をまとった女性。
ゲストハウスの前の木の下にギャツォが椅子を持ってきて、日差しを避けて腰掛ける。そこから子供たちを眺め、そこから見える景色を撮って、その後は日向ぼっこ。ギャツォは眠っているようで、私も少しうとうとする。平和だなと思う。
何を持ってそう思ったのかと考える。私の持つ平和だというイメージがあの状態に近かったからだろうか。原体験があっただろうか。多分、あったのだろう。子供の頃の記憶か、子供を持った後の記憶か、はっきりと思い浮かばないけれど、幾度とあった気がする。
何を持ってそう思ったのかと考える。私の持つ平和だというイメージがあの状態に近かったからだろうか。原体験があっただろうか。多分、あったのだろう。子供の頃の記憶か、子供を持った後の記憶か、はっきりと思い浮かばないけれど、幾度とあった気がする。
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