ラダック・ザンスカール 旅の記録 06


「自由は感覚的もしくは心情的な要求からの行動において実現されるのではなく、精神的な直感に担われた行動において実現される。
 成熟した人間は自分で自分の価値を付与する。自然もしくは造物主から恩恵を受けようと努めるのでもなければ、快感の追求をやめなければ認識できない、というような抽象的な義務を果たすのでもない。欲するままに行動する。その行為は自分の倫理的直感の基準に従っている。そして自分の欲求の達成を人生の本当の喜びであると感じている。その人は人生の価値を、努力したこととその成果との関係に即して定める。この倫理観は人間本性の外にある尺度に従って人間を計る。」

 昨夜、久しぶりにお湯をはってお風呂に入りながらルドルフ・シュタイナーの「自由の哲学」の続きを読んでいた。本を読むのは早い方だけれど、シュタイナーの本はとても難しい。読めない漢字も多々。何を言っているのかわからず何度も読み返さなければならない。
 春の終わりから読み始めて、もうあと数十ページでこの本が終わるのだけれど、ここ1ヶ月はなかなか読む時間がなかった。でも、昨日読んでいて、タイミングはあっていたと実感する。

 ラダック、ザンスカールでたくさん撮った写真を整理していて、ほとんどの写真は暗めに撮影をしてきたため編集をしなければどんな写真だったかわからない。一枚一枚明るさを出して見てみると、夢中になって撮った時間を思い出す。私の撮影は素人で、ほぼ、衝動で撮っているようなもの。普段は石ばかり撮っているし、人物も風景もほとんど撮らない。レンズも違うし、明るさも違う。それでも写真は好きだと言える。
 こんな写真を撮れるようになりたいとかも特になく、憧れの写真家もいない。シュタイナーの言う「喜び」で考えるならば、写真をとることのどこに喜びを感じているのだろうと考え込んでしまう。
 時間はどうしたって過ぎていく。実感したそばからどんどんその印象は離れていく。さっきまでありありと目に浮かんでいたものが、数日たてば思い出せなくなる。私はそれがどこか寂しいのかもしれないと思う時がある。だから写真を撮るのかというとそうでもない。撮っている時はそんなことは考えていない。撮りたいから撮っている。撮りたいという衝動は理由のないもので、撮ったあとのことを考えてはいないと思う。何が起こるのか、どんな景色が見れるのか、見てみたかった。カメラを持っていった。撮りたいと思った。そして今再び見たいと思っている。そうして欲するままに行動していった先に、ああ、と実感する何かがある。「あ」という音はシュタイナーいわく、驚きと発見の音。そしてそれが浸透する音。

 人が手を伸ばす時、もしくは足が動く時、そうしようと決める時、一体その人の中で何が働いているのか、この数年ずっと考えてきた。もともと衝動で動く人間ではあったけれど、もっと計画を立てるべきだ、無駄なことをしている、効率的にと言われると、他人の尺度が正しいように思えた時期があった。そのようにやってみるけれどうまくいかず、自分の価値を否定するという沼に陥った。沼にはまってしまうのは幾度とあり、大抵は自分の欲求を否定した時だった。
 自分の欲求を否定したくなる時というのは、望んだ結果が得られないかもしれないと思った時で、それならば初めからやめてしまおうという考えに陥る。間違ったと思いたくない。間違うということはそもそもない。選択して、その結果、経験だけがある。それを間違いだったと思うのは、人間の尺度だ。どういう尺度を持つかによって決まる。
 自分の外側から、こうした方がいいと示されたままに動くのは楽だ。楽だけれど、はたして喜びになるのだろうかと思う。他人の尺度と一致いていて、全く同意しているのならいい。でもな、なんかな、と思っているのなら、でもな、なんかな、なのだと思う。小さな声でも無視してはいけない。
 助言をくれる人は確かに先のことをわかっているのだろう。でも、人間は実感したい存在だ。楽しいと思って入ったお化け屋敷を、怖い思いをさせてはいけないと、スタッフの通る最短ルートをゆかされてお化けが人間だったという裏側も見せてもらって出口まで来てしまったら、ガッカリだ。何か困難な目にあった時、ほら見たことかとは言わず、いい経験をしたねと言いたい。子育てでも、最近そのことをよく思う。
 自由な人間は他人の評価は関係ない。やめた方がいい、やった方がいい、いくらそう勧められても、自分の赴くままにゆく。タイミングも直感が教えてくれる。それは大きな存在の恩恵ではなくて、ごく自然なことで、欲を制していたからとか、考えを手放す訓練をしたからとかでもない、とシュタイナーはいう。欲は人間の本質から生まれるもの。エゴはいけないという価値観が定着しているけれど、エゴと自我は違うもの。

 本来の自分に立ち返るというのが私のお店のコンセプトの一つだったけれど、最近その言葉を消した。自分という尺度は変化する、でも、自我とは離れることはできない。本当の自分はいつも一体。探さなくていいし、排除もしなくていい。他人の尺度が自分の尺度となってしまった場合、迷う。正しさや善を探そうとする。だから苦しくなってしまう。不自由な精神はそこにある。



 2019年8月5日。今よりももっと不自由な精神だった。
 夕方にカルギルの街にたどり着いた時、街の道路は車で渋滞しなかなか前に進まなかった。こんなものなのかと思って様子を見ていると、だんだんとこれが通常ではないことに気づいた。ホテルに着くとWifiが遮断されていると言われる。インドとパキスタンの間で領土を巡ってもめていて、この街カルギルではデモが起こる可能性が高くなっていたというのはその時は知らなかった。娘に連絡を取りたかったけれど、叶わず、同じホテルに宿泊していた日本のツアー団体の人から少し情報をもらった。ラダック・レーでもネット回線が遮断されているらしい。4日後に戻ってきた時には連絡が取れることを願った。

 8月6日。早朝から出発し、カルギルを離れると車はムスリムの村で停車した。運転手が路上で用を足すためだ。私は車から降りて通りを少し歩いた。今まで見たことのない風貌の村だった。道にはずっと木が植えられている。
 ここで夜明けを迎えた。運転手はその先の山並みが見える場所で夜明けを迎えることを薦めていて、先を急ぎたい様子だった。私はここにもっと居たかったのだと、写真を見て思う。運転手は仏教徒の方で、この時は緊迫した状況だったのもあって、早く立ち去りたかったのかもしれない。私はこの木がなんの木なのか知りたくて、運転手に尋ねたけれど、「木だ」としか言わなかった。何の種類だと尋ねたはずだと思い返して、もう一度同じことは尋ねなかった。木としか答えられないのかもしれないと思った。種類、もしくは英語名がわからないとは言えないのだろうかと思った。冷たい何かを感じた。朝焼けが並木の間に紫の影を作っていて、遠くに見える山も村もとても綺麗なのに、どこか寂しかった。けれど、ようやく見たかったと思える景色に出会っていた。初めて見るはずなのに、自分はこれが見たかったんだと実感するのは驚きに似ている。予想とは違うもの。この日の私のハイライトはこの村で見た景色だった。そこには仏教徒とムスリムの違いと、私はこの両国のことを何も知らないということもついてきた。
 尋ねればよかった。ここにもう少しいたいと言えばよかった。今はそう思う。今は変わったのかというと、ほんの少しだ。まだ自分が不自由な精神だということに気づいたくらいだ。 




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