ラダック・ザンスカール 旅の記録 03

 


 2019年8月3日

 デリーから小型機でラダックの空港レーに向かう。インド時間は午前7時。
 どのくらいのフライトだったのか思い出せない。数時間だったような気がするけれど、機内で朝食も食べたから案外4時間くらいはかかっていたのかもしれない。(後日調べたら、1時間だった。。。)インド料理の機内食はわりと美味しい。
 撮影のため、窓際の席を取った。シートは3席で隣はインド人カップルだった。とてもいちゃいちゃしている。気まずい。しかし、こちら側からはヒマラヤが見える。新調したばかりのカメラで動画やら写真やら目一杯撮る。これがヒマラヤなのかと、ついにやってきたのかと、内側の興奮は静かにやってくる。着陸のタイミングで機内にはアームストロングの「What A Wonderful World」がかかる。旅の始まりはこの曲かと思う。悪くない。





 小型機から降りて荷物を受け取りに室内へ入る。西洋人の登山客が目立つ。入国書なのか申請書を書くように紙を渡される。書き方がわからない。適当に書く。荷物を見つけて、フロアの奥に進み、先ほど書いた紙を人に渡す。売店があり、酸素ボンベが売られているのを見つける。数秒考えて、一つ買うことにする。念のため。先は長い。

 フロアから外に出ると、名前が書かれた紙を持って人が並んでいる。こういうのは初めて見る。その中に自分の名前を発見する。ホテルまで送迎を頼んでいたが、こういう感じなのかと思う。送迎の運転手は自分よりも若い男性で、駐車場まで私のスーツケースを運び、その間に何人かの男性と挨拶を交わしていく。言葉が聞き取れない。英語ではなく、ラダックの言葉なのだとだけわかる。

 予約したホテルは高台にあるため、車はひたすら坂道を登る。レーの街には商店街が並び、人が歩くのが見える。犬が路上で寝そべり、砂埃がまっている。





  チェックインをして、チャイとクッキーでもてなされる。ラダックもチャイなんだなと思いながら飲むと、とても美味しい。チベット文化圏だからこの旅ではバター茶がどこかで飲めるだろうかと期待していた。映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」でバター茶のことを知った。もっと高台にあるホテルはその映画の撮影の時に俳優が泊まったのだと紹介されたが、ダウンタウンに歩いて行ける距離のホテルの方が魅力的だった。歩くのは好きだ。


   二階の角部屋の部屋に通された。部屋の窓からテラスが見える。
すぐにでも外に出てみたいけれど、体がいうことを聞かない。耳鳴りがして、少し目が回る。水を飲めるだけ飲み、ベッドに横になると眠気がやってくる。



 夕暮れ前に目が覚めて、カメラと財布を持って外に出る。ホテルの前の小さなマーケットで水を買い、部屋に持ち帰りまた外に出る。テラスに周り写真を撮って、なんだか歩けそうだと思い坂道を降りて行くことにする。少し歩くと日が暮れてあたりは暗くなり始め、行けるとこまで行こうと思ったけれど、やはりまだ動くのには早すぎたのか頭が痛くなる。元来た道を引き返すけれど登り坂。息が上がる。



 商店街では店じまいをしている。すれ違う人に顔を見られる。私も見つめる。珍しいのだろうかと思う。ホテルに着く頃には頭痛が酷くなる。部屋に戻る前に離れにあるレストランの場所を確認しに行く。

 レストランの扉の前ではスーツを着た男性が立ち、客を待っていた。「食事ですか」と英語で聞かれて、「はい」と答えるが、「一度部屋に戻る」と話す。「具合が悪いのか」と聞かれて「頭痛がする」と答えると、ロビーまで付き添ってくれる。日本人かと聞かれる。そうだと答えると、「コンニチワ」と彼は言う。ああ、よくあるやりとり、と私は思う。すぐに横になりたい、愛想笑いすらする気力がない。あとで戻りますとだけ伝えて階段を登る。男は丁寧な英語で答える。
 
 2度目にベッドで目が覚めた時には1時間経っていた。少し横になるつもりがずいぶん時間が経ってしまったと思う。でも、これでいいのだろうとも思う。初日はよく眠ること、無理をしないことと、ラダックに訪れた友人に念を押されていた。
 身支度を整え部屋を出る。階段を降りようとすると先ほどの男が階段の下に立っている。ロビーから客を案内するのがルールなのだろうかと思う。身体がフラフラしてうまく降りれない。この男はずっとここで待っていたわけではないだろうと、待たせたことを詫びる会話はしなかった。具合は良くなったかと聞かれ、少し眠り、薬も飲んだことを告げる。
 レストランに入ってから席に通され、ディナーはバイキングで今日はインド料理なのだと説明がある。飲み物を聞かれて、水とチャイを頼む。いい匂いがする。急に空腹を感じる。
 大きなお皿に順番に料理をのせ、席について一人食べる。周りを見ると客は全て2、3人連れ。ああ、そうなのかと思う。私は一人なんだなと思う。一人なのだと実感することが久しぶりなのだと分かる。日常ではいつも子どもがいる。前の年までは夫がいた。仕事で海外に出る時も一人だとは思っていなかったのだと分かる。それは仕事だからだろうと思う。取引先やお客さんのことを考える。ここは知らない土地だからだろうかと考える。仕事以外で旅に出るのが久しぶりだからかもしれないと思う。父がいつか言った「孤独はよしとしても、孤立はするな」という言葉を思い出す。この感覚はなんだろうか、寂しいのだろうか、心細いのだろうか、周りを見ながら考える。

 誰かと一緒に食事をしていても、一人を感じる場合もある。大勢の中にいても一人ということがある。線を引く。相手と自分。比較の中。
 逆に、自然の中にいると一人だとは思わなかったりする。比較する対象がないからなのだろうか。

 比較しているのは自分であるはずなのに、それに気付けず、これまでどういう経験をしてきたかで判断し、どういうものが優れているかとデータを引っ張り出し、挙句は神はどんな目的をお命じになったのかとまで膨らませる。そういう精神は不自由だ。ラダックのあのレストランにいる時はそこまでは思えなかった。

 レストランまで案内した男は私を見て、どこか寂しげだったと言った。自分探しをしている人の顔だったのだろうか。

 何をもって自分と言うのだろう。自分と認識している大抵のものは過去の蓄積。あれをこうしたときは上手くいったとか、いかなかったとか、そういう経験で大体のことを判断する。決める。過去とか、周囲との比較とか、憧れる宿命とか、できるだけ都合のいいものにフォーカスしそれを信念として持ち込む。信じられる答えを出してそれを力にすることはできるけれど、信念は足かせにもなる。余白が欲しい。スペースが。何もわからない、何も決まっていないという、スペース。そこから生まれる精神は自由だと、2年経った今はそう思う。




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