ラダック・ザンスカール 旅の記録 01


 ラダック、ザンスカールのことを書き始めようと思う。
 もうすぐ二年が経つ。
 振り返れるタイミングを待っていたけれど、こんなに時間がかかるとは思っていなかった。帰国した直後、送り出してくれた友人にお土産を持って訪ね、その時に少し話したけれど、まだ自分でも噛み砕くことができなくて、旅の何かを話せていたのかさえわからない。話したくなかったのかもしれない。

 旅は終わったはずなのに、終わった気がしなかった。押し出されるようにしてザンスカール行きを決めたけれど、旅を終えてもずっと、始まったことを意識しているようだった。何が始まったのか、何を見つめることを始めたのか、ぼんやりとしていた状態から輪郭が見え始めたのはごく最近のことのような気がする。写真を整理し始めたのも最近だ。
 去年は小説を書いていて、終わりの方まで書き進めることができたけれど、止まってしまった。フィクションよりも、事実を書く方が先なのかもしれないとふと思った。置き去りにしている物語がたくさんある。読みかけの本のように。

 ラダック。この場所を知ったのは2004年だったと思う。
 結婚して、その後にヘルニアになって、1年間治療をしていた。治療という名目で小説を書く時間を手にした。その頃たまたまWEBで開いた写真に目が止まった。書いている小説の舞台と重なった。写真に写るその場所がどこなのかを調べ、北インドのカシミール地方、ラダックと呼ばれるエリアなのだとわかった。標高3500、ヒマラヤが目の前に見え、チベット文化が残る場所。当時のチベットよりもチベット文化が色濃く残っているのだと調べてわかった。
 小説の題材としてロマを追っていた。なぜロマを追っていたのか、それも、ロマの音楽を聴いて魅了されてやまなかったからだった。カシミール地方はロマ(ジプシー)の源流なのではないかと書かれている書籍を読んだ。ヨーロッパに移動を繰り返したロマの起源はインド・ヨーロッパ語族が大移動を始めた頃に遡ることができるのではないかと書かれていた。

 カシミールは時代によって様々な文化が参入と移行を繰り返している。古代ペルシャ文化、仏教、チベット仏教、ヒンズー、ゾロアスタ。現在、カシミールの9割はムスリム。
 カシミールというエリア、その中の標高の高い場所に惹かれるのはわかった。でもその写真の場所がラダックのどこなのかは特定できない。実際のラダック地方のチベット仏教や建築物に興味があるというわけではないような気がする。ただ、イメージと似ているというだけ。いつか行きたい、その時はそう思うことしかできなかった。ヘルニアのせいではない。行けるという自信がなかった。ただ、行けるタイミングがきたら、その場所に詳しい人が現れるだろうと、そういう思い込みを持った。願掛けのようなものだ。

 同じ年に、ある人に出会っていた。2004年のミネラルショー(鉱物の仕入れ会場)で出会っている。その時はまだ、後に仕事でお世話になるということは知らず、その方がラダック、ザンスカールを旅してきた人だということも知らなかった。こういうことはよくある話だ。15年後、私はラダック、ザンスカール行きを決める。旅のしおりのような情報をその方からたくさん教えてもらうことになる。

 2019年、8月にラダック、ザンスカールへ向けて旅する。
 15年も前からすでに用意されていたのかもしれないという勝手な妄想が、背中を押した。背中を押したのはそれだけではない。行けるかもしれないと思い始めてから、チケットをとるまでの1ヶ月で5人のラダック訪問者に出会った。そのうちの4人は北杜市である。
 ヘルニアはとうの昔に治っていたのに、実に腰が重かった。安心材料となる旅の情報はどんどん入ってくるけれど、それだけでは思い腰を上げる力にはならなかった。あらゆる方面からプッシュが起こった。

「タイミングが答えだ」と私に教えてくれた人はロマのような男性だった。脳みそに腫瘍を抱えていながら世界中を旅してきたその人は、ラダックで起きたタイミングのよい出来事を話してくれた。縁がある場所や人とは偶然が重なる。用意されていたかのように事が進む。
 知ってることではあった。だからこそそれが起こることを怖がった。偶然が重なると人は勝手な妄想をその出来事に関連づけようとする。その妄想が参入させてしまう理由は様々で、その人が持っている願望によって”こじつけ”の内容も変わる。偶然を偶然のままに、あるいは必然のままにさせておくことができない。何か理由を求める。完全に理解したいと思ってしまう。そうでなければ、怖いからだ。先の読めないものに飛び込むのは誰でも怖い。

 私の恐れは漠然としていた。ラダックは確かに簡単に行けるところではない。標高が問題だと皆が口にする。でも、自分が抱いている恐れは旅先の心配ではないような気がした。

「何か葛藤を感じた時、僕はお墓に行きます」と言ったのは、森で出会った作家志望の男性だった。時折訪ねるお墓があるのだという。そこを訪れると気持ちが決まるのだと、彼は話してくれた。

「感情を無視するのは円ちゃんの得意技だから、自分をコントロールするのはやめた方がいい。まだ結論を出すのは早い。早く納得したいのだろうけど、今全体が見えていない中で答えを出そうとすると、無理やり自分が納得するような答えを作り出すこともできてしまう。」
 そう言ったのは、石の仕事の先輩だった。
 先輩はマインドフルネスの勉強をしていて、6月に鎌倉に行くからその後に会えないだろうかと話していた。私はその日は難しいと話した。7月に会う約束をしていて、その時にラダックへの旅を決めたことを話そうと思っていた。
 先輩とはこれが最後の連絡となった。そんなことは知らない私は、先輩の忠告を無視して、早速納得する答えを出して、返信をしていた。先輩は書いたことは何にも伝わってないと、やれやれと、この時思っていたのかもしれない。
「円ちゃんは極端だからな。人の言うことを聞きすぎて自分を抑え込んだり、全く聞かないで突っ走ったり。」メールを読み返していて、そう言われそうだなと思う。少し困った顔。

「怖い?離婚して、他に怖いものなんてあるの?」と言ったのは元旦那だった。
 案外その言葉は効いた。長い間行きたかった場所だということを彼は知っている。からっと軽く吹き飛ばすような言葉の投げ方。彼は昔からそういうところがある。この人と結婚していいのだろうかと悩んでいた時、彼の変な音のいびきを聞いて吹き出した。
 離婚後に先輩の前でワーワー泣いたことを思い出す。あの日が先輩と会う最後の日だった。結婚、そして離婚について、ものすごく大きな気づきに差し迫って、引き出され、先輩は泣く私に言った。
「誰かを幸せにしたかっただなんて、思いあがっている。」

 6月、先輩がこの世界を離れた日の朝、ベランダの窓に黄色い鳥がとまった。黒の模様と少し混ざって、目の悪い私は黄緑色に見えた。目の錯覚。娘を学校に車で送っていく途中で、空が綺麗で、このままどこかに娘と旅でもしたいと思った。娘は北海道がいいと言った。帰宅してから、ふと線香の香りを思い出して、線香をたいた。その午後に連絡があり、先輩が亡くなったと知った。

 先輩が亡くなった翌日は雨だった。
「怖いな」と言った私に「行かなきゃ」と言ったのは、古い洞窟から出てきたような人だった。その方に連れて行ってもらった森で小さな別れの挨拶をした。
 泣いてばかりいないで洗濯をしようと試みたけれど、トイレットペーパー1ロールが棚から洗濯機に落ちて、一緒に洗ってしまい、大量にこびりついた白い紙屑を洗濯物から引き離す作業に追われた。取っても取っても終わらない作業。その合間に、先輩の少し困った顔を思い出した。やれやれ、と言われているような気がして、泣きながら少し笑った。
 その翌日は晴れて、黄色い衣を纏った人が目の前で踊るのを見てた。オイリュトミーというシュタイナー継承のダンサーで、その方は紛れもなく人間だったけれど、何かを纏った人間だった。
「大丈夫です。亡くなった人の魂は、生きている人の想いで迷わず次の世界に行けるのだそうですよ。」彼はそう言った。

 しっかりしなきゃダメだと周りから言われ、旅の準備をした。向かうは標高3500、旅の途中では4500まで標高が上がる場所を通らなければならない。最終目的地は車は通れず、5時間のトレッキングも予定している。

 7月から歩き始めた。自宅の標高は900。家の前の坂道を登れば標高1100あたりまで道が続いている。標高差200程度。気休めだけれど、朝夕、登って降りた。

「まどちゃん、楽々引越しパックだよ。」と言ったのは登山家の友人。全て用意されているから大丈夫という意味。
「行ってきます。」と私よりも先に言ったのは娘。柔らかいハグ。
 娘が元旦那と夏を満喫しに旅立ったその夜は新月で、私の方も出発前夜だった。一人、ジャスピアノの弾き語りを聴きに行った。多分、一人で過ごすには少し寂しかったのだと思う。その女性が歌う子守唄に泣いた。私は母親だと思った。母は強い。強い母のことを思った。漠然とした恐怖はまだ持ったままだった。わからないままでもいい。そのままでも大丈夫なのだと思えた。


 新月から満月を目指す。
 旅の最終目的地のプクタル・ゴンパに着く頃は満月を予定していた。



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