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ラダック・ザンスカール 旅の記録 07

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   2019年8月6日  写真を撮りすぎている。無駄に。  写真を撮るよりも、多すぎる写真の中からそのシーンの一枚を選ぶ方が遥かに難しい。  たくさん撮ったのに、大したことがないと、あーあとなる。  でも、何事もやってみないとわからない。別の目的で始めたことが、やっているうちに違う何かを学んでいる機会になることもある。  運転手が日の入りを目指していた場所は、スル川から見えるヌン・クン山。ガイドブックに載っている通りの風景がある。たくさん写真を撮ったけれど、全部同じ。観光者を乗せていつも運転している彼にとっては、ここは写真スポットなのだと思う。確かに撮りたくなる。でも、ここは特に知りたかった場所ではないと思った。いい風景の写真を撮りたいわけでもないのだと再確認をした。  牛が歩いていて、山よりもこっちを、接近して撮ってみたいと思った。野生の牛の目がどんな風なのか覗いてみたかったけれど、運転手はただの牛だという感じだった。威圧感はないけれど、車を止めてほしいというのを躊躇してしまう。やっぱり男性は苦手だ、疲れると思い始めたのはこの時くらいからだと思う。運転手のテンションがこの日はとても高かった。  景色が次第に変わってきて、ああ、と思う風景が増えていった。砂利の山、緑のクラデーション。車を止めて欲しいと何度か話したかどうか覚えていない。車の中から撮ったような気がする。  次のスポットについた。丁度朝ごはんくらいの時間。ここは一つ目の氷河が見れるスポット。前日に会った運転手の従兄弟と、そのお客のヨーロッパ出身の女性とここで合流する。 ホテルで頼んでおいた朝食(お弁当にしてもらった)を休憩所のようなところで食べる。カフェのようだった。お茶を出してくれる。チャイだった。  運転手の従兄弟の車には他に2人の女性が乗り合わせていた。親しい間柄ではなさそうな感じがしたので、彼女たちの目的地まで乗せているのかもしれない。  トイレに行き、その後転ぶ。  トイレというものはなく、上の草むらの先で。  乗り合わせていた女性たちが先に茂みの中にいたので、私はその場所からは少し離れる。町を出てからはずっとこれが続く。インドに行ったことがある日本女性は、これが嫌だったと言っていたが、私は民家のトイレを借りる方が辛かった。外にあって、落ちたらどうしようというような穴。そして野犬に気を...

ラダック・ザンスカール 旅の記録 06

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「自由は感覚的もしくは心情的な要求からの行動において実現されるのではなく、精神的な直感に担われた行動において実現される。  成熟した人間は自分で自分の価値を付与する。自然もしくは造物主から恩恵を受けようと努めるのでもなければ、快感の追求をやめなければ認識できない、というような抽象的な義務を果たすのでもない。欲するままに行動する。その行為は自分の倫理的直感の基準に従っている。そして自分の欲求の達成を人生の本当の喜びであると感じている。その人は人生の価値を、努力したこととその成果との関係に即して定める。この倫理観は人間本性の外にある尺度に従って人間を計る。」  昨夜、久しぶりにお湯をはってお風呂に入りながらルドルフ・シュタイナーの「自由の哲学」の続きを読んでいた。本を読むのは早い方だけれど、シュタイナーの本はとても難しい。読めない漢字も多々。何を言っているのかわからず何度も読み返さなければならない。  春の終わりから読み始めて、もうあと数十ページでこの本が終わるのだけれど、ここ1ヶ月はなかなか読む時間がなかった。でも、昨日読んでいて、タイミングはあっていたと実感する。  ラダック、ザンスカールでたくさん撮った写真を整理していて、ほとんどの写真は暗めに撮影をしてきたため編集をしなければどんな写真だったかわからない。一枚一枚明るさを出して見てみると、夢中になって撮った時間を思い出す。私の撮影は素人で、ほぼ、衝動で撮っているようなもの。普段は石ばかり撮っているし、人物も風景もほとんど撮らない。レンズも違うし、明るさも違う。それでも写真は好きだと言える。  こんな写真を撮れるようになりたいとかも特になく、憧れの写真家もいない。シュタイナーの言う「喜び」で考えるならば、写真をとることのどこに喜びを感じているのだろうと考え込んでしまう。  時間はどうしたって過ぎていく。実感したそばからどんどんその印象は離れていく。さっきまでありありと目に浮かんでいたものが、数日たてば思い出せなくなる。私はそれがどこか寂しいのかもしれないと思う時がある。だから写真を撮るのかというとそうでもない。撮っている時はそんなことは考えていない。撮りたいから撮っている。撮りたいという衝動は理由のないもので、撮ったあとのことを考えてはいないと思う。何が起こるのか、どんな景色が見れるのか、見てみたかった。カメラを持...

ラダック・ザンスカール 旅の記録 05

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子どもは何かの拍子に突然泣き出して、自分でも泣いている理由がわからない、ということがある。はたして、子どもだけだろうか。今日はそういうことを書いてみようと思う。 2019年8月5日、レーを出発してカルギルを目指す。 早朝出発。チェックアウトを済ませ、運転手付きのレンタカーに荷物を詰め込む。運転手はザンスカール出身の50代男性。黒縁メガネ、仏教徒。車は山道を難なく行ける四駆の大きな車。助手席に乗り込み、出発。 レーの街を出ると砂の大地が見える。遠くに山。しばらくすると軍事用の敷地があり、鉄格子が道路に沿って続く。インドとパキスタンが国境を巡って色々ややこしくなっていることをこのときは知らない。出発の前にインド側が国境や領土についてある宣言をしてしまったことで、パキスタンとややこしくなっていたということを、私は帰国してから知る。レーに着いた翌日にはWifiが繋がらなくなった。暴動が起こらないように政府がWifiをカットしていたとか。ルーターは持っていったけれど、街を離れるとほとんど機能しない。カルギルの街に着けはホテルのWifiが使えるだろうと思っていた。 大きな道をひたすら車はゆく。砂地の風景はアリゾナと少し似ている。 しばらくすると、白い祠が見えてくる。3つ並んでいる映像をどこかで見た。沖縄のお墓もとても大きいのだということを思い出す。 川が見えてくる。 空が近い。雲の影が山に映る。 カルギルまで2、3時間ほどの地点。 その途中にあるラマユルを目指す。 最初の検問を通過する。パスポートを運転手に渡し、警官の許可をもらう。 面白い地層の山が続く。小さく見えるけれど、とても大きいのだと細部を見てわかる。溶岩のような形成に見えるけれど、流れ込んで固まったその先の砂利道は川だったのだろうかと思う。降りて土を触ってみたいと思うけれど、先へ進む。 ラマユル・ゴンパ。昔、湖がありそこにルーという生物がいた。 ナーローパが瞑想したとされる洞窟が寺院本堂の向かって右側にある。 本堂のことを思い浮かべると、匂いを思い出す。なんの匂いと言っていいのだろう。お香の香りと動物っぽい匂い。少し甘くて、少し酸味のある匂い。 堂内は光を入れないようにとても暗い。壁には壁画、ガラス張りの中に古い仏像が並ぶ。仏像の前にはお札が置かれていて、もしくは何かと何かの間に挟まるように置かれていて、ここにはたく...