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ラダック・ザンスカール 旅の記録 08

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  体的よりも内的。目で見えるものよりも、この目で見ようとしたものの方を大事にしたい。手で触れられるもの、肉体で感じること、起こった物理的な出来事をただの偶然の出来事として流してしまうより、そのことから何かを掴みたい。起こることには何かの因果関係があって、起こることは避けられなかったりするのかもしれない。けれど、それを運がいいとか悪いとかで簡単に片付けてしまいたくない。起こる出来事に因果はあったとしても、それをどう消化し活用するかは自分次第となるわけで、そういう理由から運命はあるけれど、ない、と思っている。  体的、肉体で知覚すること。それよりも、内的でありたい。なぜこれは起こったのかを考えること、その出来事を受けとめて肯定させること、それらが内的であるとシュタイナーは言っている。内的感覚は育てるものだとも。  仏教もキリスト教も、内的感覚への独自の解釈を薦めない。考えるな、解釈するなと教える。シュタイナーは思考することを薦める。概念こそ内的な感覚を育てるものだと言う。あらゆる哲学者から非難をされ、その非難に対して回答している。今だから理解されるけれど、100年以上前のその時代ではとんでもない異端者扱いだったのではないかと思う。  私には一体あれはなんだったのかという、まだ消化できていない出来事がいくつかある。この旅もその出来事の延長線上にあり、消化するために足を運ばせたと言ってもいいのかもしれない。チベット仏教を知りたかったわけでもなく、観光でもない。観光でこんな山奥まで行く人もいるかもしれないけれど、動機は単純なものだとしても、そこにはきっと何か引きつけるものがあったと思いたい。もしくは引っ張られてしまう何か見えない動機がその人の中にあったのか。その動機が見えていなかったとしても、体験が消化された時には目的とその動機もわかってくることがある。後からわかる。私の場合は、書くことによってわかってくることの方が多い。思考することは必要だ。  2019年8月7日  パドゥムを早朝に出発。2泊分の荷物を登山用のバックパックに詰め、ガイドと一緒に車に乗り込む。天気は小雨。雨の運転は危ないと運転手は話す。町から出て、山の方へ向かい、断崖絶壁の舗装されていない道をしばらく進む。  途中、ゴンパに立ち寄る。ムネ、レルー、その付近のゴンパだったと思うのだけれど、記憶が定かでない。前...